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これは自分の世界での話で

いろんなことを

思っちゃってもOK。






あんなことを思っては

こう考えては

いけない、ではない。






これは

自分の心の内のことで

だれかやなにかに

だだもれさせるわけじゃないから。






そうやって

耳を傾けるようになると

いつも心の中で

どんなおしゃべりが

繰り広げられているかが

見えてくる。






自分が自分を

どう見ているのか

どう思っているのか

どう扱っているのか。






思っている以上に

辛辣な言葉を出し

見張りをしていることに

気がつくのではないでしょうか。






これは

外の世界との関係で

自分を窮地に立たせない

困ったことにならないよう

自分を守るためだったはずが

いつしか自分が一番

責めていた、なんてことが。






絶えず

自分を責める声が

繰り返されている。

想像しただけでも恐ろしい。






自分が自分に

どのような声かけをしているのか。

自分への扱いが

見える世界にも現れる。

幸せに

なるというより

感じるもの

味わうもの、の方が

しっくりくる。






すごく個人的な感じがするし

自分がわかっていればいい

そう思うから。






ささやかなことでも

人に気がつかれなくても

あまり理解されなくてもいい。






追い求めるのではなく

ここはどうなっているんだろう。

そんな見方は

すでにあった

そうであったと

幸せを

おのずと浮き上がらせてくれる。






だから

なるより

味わう

感じる。






単純に

その方が

おもしろそうだし

じわじわ楽しめそうだ。

巷には

願いを叶えるための

たくさんの方法ややり方

考え方がある。






願いを叶えることに

限ったことではないが

人の数だけある。






そりゃそうだ、と思うものの

強く叶えたいと思うこと

長年持ち続けてきた願いで

あればあるほど

幸せそうな人

うまくいった人の

考え方ややり方に

のめり込んでしまうことがある。






要は、この方法が絶対だ

くらいの勢いだ。






経験した人の話なので

そりゃそうだ。






でも

ここで

ちょっと

冷静になってほしい。






その方は自分ではないのだ。






なにかしら惹かれるということは

似ているところがある

必要な要素を見せてくれている

可能性も高い。






しかし

その方は自分ではないのだ。






たとえば

洋服の好みが似ていたとしても

毎回、同じ服を選ばないだろう。






同じ洋服でも

髪型や持ち物

体型、着こなしで

雰囲気は違ってくる。






だから

まねたからといって

同じ結果が出なくでも

その方のせいでもないのだ。






そう

そもそも根本は違うのだから

いいなと思った方の方法を

参考にしつつも

自分にはと意識を向け

自分に合わせていく。






それは

やってみないとわからないし

取り組みつつ変えていく

微調整や

創意工夫が必要なのだ。






そうすると

なじんでくるし

しっくりくるし

自分なりのスタイルが

出来上がっていく。






そこまできたら

存分に満喫するといいし

どんどん使っていくといい。






でも

どこか片隅には

それさえも

壊したり

壊されたり

変化することがある、と

とどめておくこと。






コツは好きなものを

選ぶときのように

気楽に取り組むこと。






野菜でも果物でも

旬のものは滋味深い。






感情も旬のものの方が

味わい深いのではないだろうか。






うれしいこと

そうでないことに

振り回されることでも

コントロールすることでもない

完全で不完全な美しさ。

花火が開くように

ぱっと心に広がる感情に気づき

そして自分を知っていくこと。






それって

一瞬の旬なんだと思う。

信号で止まる回数が多いと

損した気分になり

ことごとく青になると

ツイてると思うのは

なぜだろうか。






思い通りになることが

よいことで

ならないことが

悪いと思っているからだろうか。






はたまた

スピリチュアル業界で

神さまに応援されている人

波動が高い人

高い次元にいる人は

よいことばかり起こると

よく聞くからだろうか。






どの捉え方でも

いいのだけれど

神である自分が

いろんな現象や出来事を通して

そこから経験できる

体感や感情を

楽しんでいる、というのは

どうだろうか。






自作自演と言えば

自作自演なんだけれど。

あくまでも

自分による

自分のための娯楽。






ということは

楽しむために

現象や出来事を

起こしているということでもあり

望むことも

自作自演できるということだ。






身体を持っている自分が

一喜一憂しているんだなと

ほほえましく眺めているのが

神である自分、という意味。






だから

赤信号が続いて

イラっとするのもありだし

なにかのアクシデントに

遭遇せずに済んだと

ニヤッとするのもありだ。






少なくとも

赤信号が続いて

運気を上げるために

欲しくもない

壺を買うことは回避できる。

そう思っていても

がんばれないとき。






自分の足りないところを探しては

補うことに力を注いでいないだろうか。






でもね。

その前にチェックしてみて。

周りのだれかは笑顔。

でも自分の心は曇っていないだろうか。






もしかしたら、とか

ちょっとそんな気がすると思ったら

自分も笑顔。

そして周りのだれかも笑顔。






そんな生き方、あり方に

変えてみるのはどうだろうか。






そう考えるだけでも

少しは肩の荷がおりるかもしれない。

まず、おもしろそうと思うこと

やりたいことをやってみる。






とは言っても

時間がないし

やりたいこともよくわからないし。






そんな声が聞こえてきたときこそ

難しく考えない。






難しく感じるときは

人からいいねと思われること

みんなが知っているようなこと

やるからには、ちゃんとしたもの

これらのように

なにかスケールの大きなことを

思い描いている可能性があります。






やりたいことが

よくわからないときこそ

今すぐできそうなものにする。

そうお試し感覚で。






それでも

簡単なものより

難しい方がいい

その方が価値がある、と

むくむくと反論が出てきますが

そう思っているんだなぁと

心の内を見つめて終わりにする。






お茶を飲みたいのなら飲む

玄関掃除をしないで録画したのを見る

こんな簡単なこと、と

思うくらいのことをやる。






今すぐできるはずなのに

意外とできていないものです。






好きなことをやっていたら

いいことが起こるかも、などと

そのようなことも考えずに

身体を動かしてやってみる。






意味のないことを

お試し感覚で、気軽にやる。






これ、とっても

有意義なことだと思うのです。

他の人の分がなくならないかな

好きなものを食べたら

あとで嫌なことが起こらないかな

エビフライフェアで

安くなっているけれど

こんなに得していいのかな、などと

あれこれ考えて

清水の舞台から飛び降りるくらいの勢いで

注文するだろうか。






注文した後も

厨房にちゃんとオーダー届いているかな

エビフライ揚げるのめんどくさくないかな

こんなふうに、あれこれ悩むだろうか。






やったー。

大好きなエビフライのフェアだ。

セットでこの値段は安いわ。

ラッキー。

そう思って注文するだろう。






そして

楽しみ。

早く来ないかな。

少し時間がかかっているのは

みんなが注文してるからかな。

お得なフェアだもんね。

そんなことを思いながら

今か今かと待っていることだろう。






このように

ウキウキで注文して

お腹を空かせながらも

ワクワクで待っていないだろうか。






欲しいものや願い

なかなか叶わないと思っていることも

難しいと思っていることも同じ。

エビフライセットの注文と

何ら変わりはない。






エビフライと同様に

欲しいものや望みを

遠慮せずに願う。






そして

それが目の前に来たときは

いやいやいやとしり込みせずに

受け取ろう。






しり込みは

空気を吸うのに

いやいや自分だけってわけには、と

鼻や口を強く閉じ拒否している

摩訶不思議な行動と同じだ。

身体いっぱい呼吸しよう。






エビフライセットを

美味しくいただくように

願ったことが

自分のもとに届いたら

ありがたく受け取ろう。

そして楽しもう。

『ほらぁ~』と

自分に言われたくないから。






そんなんじゃ、社会人として失格。

これくらい、できないとね。

気が利かな過ぎ。

大人なんだから。

いろいろ出てきます。






相手目線で語っていますが

相手は自分ではないので

おそらく、こう思っているんだろうな

こう思われているんだろうな、という

憶測にすぎません。






相手が、どう思っているかは

ほんとのところはわからないのです。






この憶測は

大人になればなるほどやりだします。






さまざまな経験を通して

このパターンのときは

これかな、と分類したり

自分が他の人を見て思ったことは

他の人も同じように思うだろう、という

決めつけうをしてしまうから。

こう思われたくない、という

独自の基準もあります。






忙しそうだから、ひと段落ついたころに

大泣きしてミルクを要求しよう、なんていう

赤ちゃんはいない。

これは、大人のなせる業です。






そう考えれば

本当は

他人の目ではなく

自分の目を気にしていることに

気づきます。

自分にダメ出しをされたくないのです。






本当は

自分に好かれたくて

認められたい、という大人心です。






ということは

自分以外の誰かに

認められたり

嫌われなりしないように

神経を張りつめ

無理して自分を作ったり

合わせたりしなくても

いいということ。






だから

もっと肩の力を抜いていいし

そもそも安全だったということです。

どれが正しくて

正解なんだろう、という視点で

いつも、いつも

物事を見たり、考えたり、探したり

判断基準にしたりしているから。






外ばかり見ていると

自分の好きなことや

やりたいことが分からなくなる。






逆に内ばかり見ていても

自分は正しくて

相手が間違っているに陥りやすく

好きなことややりたいことが

結果、遠のいてしまう。

なんてことが起こりやすい。






「ばかり」ではなく

「いがい」にも

視野を広げてみると

均衡がとれて

自分は・・・と考え

気がつくタイミングが来る、はず。

ちっぽけなことで

満足していたら

大きなことは成し遂げられない。

という話を何度も聞いたことがある。






でも、ちっぽけなことにも

満足できないのに

大きなことで満足できるのだろうか。






ほんとは

満足することに

ちっさいも

でっかいもないのだろうけれど。






でも

どうしても

でっかいものは、すごい

ちっさいものは、そうでもない、と

思ってしまう。

それは

ちっさいものは簡単で

大きいものは難しい、っていう

思いがあるから。






確かに違いはある。

時間がかかるとか

いろんな人の手がかかるとか。

でも、大きいもののすべてが

時間がかかるというわけでもない。

画用紙に絵を描くよりも

米粒に書く方が時間がかかる。






大きかろうが

小さかろうが

満足は満足。

心が満たされ満足しているのなら

それでいい。






願いが強ければ強いほど

言い換えると

まだそうではない

足りていない、と

思っていればいるほど

大きなものを求めがちになる。

まるで、ばくちのようだ。






イチバチがダメというわけではないが

疑いがや不安が出てきやすくなるので

モノゴトが進みにくくなる。






だから

そんなこと、と思うような

小さな喜びやうれしいなどを

スルーしないことが大切だ。

それは日々の暮らしの中にある。

あえて、想像力を働かせて

創るってのも手だ。






大みそかは明日やってこない。

みんな知っていることだけれど

でも、ばくちのようなやりかたは

これと似ている。






239日寝たら

大晦日がやってくる。

一日一日の積み重ね。






ちょっとした

うれしいことや

楽しいことを

無理に見つけることも

そう思い込もうとする必要もないが

ふと心が動く瞬間に

気づけるようになりたいものだ。