信号で止まる回数が多いと
損した気分になり
ことごとく青になると
ツイてると思うのは
なぜだろうか。
思い通りになることが
よいことで
ならないことが
悪いと思っているからだろうか。
はたまた
スピリチュアル業界で
神さまに応援されている人
波動が高い人
高い次元にいる人は
よいことばかり起こると
よく聞くからだろうか。
どの捉え方でも
いいのだけれど
神である自分が
いろんな現象や出来事を通して
そこから経験できる
体感や感情を
楽しんでいる、というのは
どうだろうか。
自作自演と言えば
自作自演なんだけれど。
あくまでも
自分による
自分のための娯楽。
ということは
楽しむために
現象や出来事を
起こしているということでもあり
望むことも
自作自演できるということだ。
身体を持っている自分が
一喜一憂しているんだなと
ほほえましく眺めているのが
神である自分、という意味。
だから
赤信号が続いて
イラっとするのもありだし
なにかのアクシデントに
遭遇せずに済んだと
ニヤッとするのもありだ。
少なくとも
赤信号が続いて
運気を上げるために
欲しくもない
壺を買うことは回避できる。
そう思っていても
がんばれないとき。
自分の足りないところを探しては
補うことに力を注いでいないだろうか。
でもね。
その前にチェックしてみて。
周りのだれかは笑顔。
でも自分の心は曇っていないだろうか。
もしかしたら、とか
ちょっとそんな気がすると思ったら
自分も笑顔。
そして周りのだれかも笑顔。
そんな生き方、あり方に
変えてみるのはどうだろうか。
そう考えるだけでも
少しは肩の荷がおりるかもしれない。
まず、おもしろそうと思うこと
やりたいことをやってみる。
とは言っても
時間がないし
やりたいこともよくわからないし。
そんな声が聞こえてきたときこそ
難しく考えない。
難しく感じるときは
人からいいねと思われること
みんなが知っているようなこと
やるからには、ちゃんとしたもの
これらのように
なにかスケールの大きなことを
思い描いている可能性があります。
やりたいことが
よくわからないときこそ
今すぐできそうなものにする。
そうお試し感覚で。
それでも
簡単なものより
難しい方がいい
その方が価値がある、と
むくむくと反論が出てきますが
そう思っているんだなぁと
心の内を見つめて終わりにする。
お茶を飲みたいのなら飲む
玄関掃除をしないで録画したのを見る
こんな簡単なこと、と
思うくらいのことをやる。
今すぐできるはずなのに
意外とできていないものです。
好きなことをやっていたら
いいことが起こるかも、などと
そのようなことも考えずに
身体を動かしてやってみる。
意味のないことを
お試し感覚で、気軽にやる。
これ、とっても
有意義なことだと思うのです。
他の人の分がなくならないかな
好きなものを食べたら
あとで嫌なことが起こらないかな
エビフライフェアで
安くなっているけれど
こんなに得していいのかな、などと
あれこれ考えて
清水の舞台から飛び降りるくらいの勢いで
注文するだろうか。
注文した後も
厨房にちゃんとオーダー届いているかな
エビフライ揚げるのめんどくさくないかな
こんなふうに、あれこれ悩むだろうか。
やったー。
大好きなエビフライのフェアだ。
セットでこの値段は安いわ。
ラッキー。
そう思って注文するだろう。
そして
楽しみ。
早く来ないかな。
少し時間がかかっているのは
みんなが注文してるからかな。
お得なフェアだもんね。
そんなことを思いながら
今か今かと待っていることだろう。
このように
ウキウキで注文して
お腹を空かせながらも
ワクワクで待っていないだろうか。
欲しいものや願い
なかなか叶わないと思っていることも
難しいと思っていることも同じ。
エビフライセットの注文と
何ら変わりはない。
エビフライと同様に
欲しいものや望みを
遠慮せずに願う。
そして
それが目の前に来たときは
いやいやいやとしり込みせずに
受け取ろう。
しり込みは
空気を吸うのに
いやいや自分だけってわけには、と
鼻や口を強く閉じ拒否している
摩訶不思議な行動と同じだ。
身体いっぱい呼吸しよう。
エビフライセットを
美味しくいただくように
願ったことが
自分のもとに届いたら
ありがたく受け取ろう。
そして楽しもう。
『ほらぁ~』と
自分に言われたくないから。
そんなんじゃ、社会人として失格。
これくらい、できないとね。
気が利かな過ぎ。
大人なんだから。
いろいろ出てきます。
相手目線で語っていますが
相手は自分ではないので
おそらく、こう思っているんだろうな
こう思われているんだろうな、という
憶測にすぎません。
相手が、どう思っているかは
ほんとのところはわからないのです。
この憶測は
大人になればなるほどやりだします。
さまざまな経験を通して
このパターンのときは
これかな、と分類したり
自分が他の人を見て思ったことは
他の人も同じように思うだろう、という
決めつけうをしてしまうから。
こう思われたくない、という
独自の基準もあります。
忙しそうだから、ひと段落ついたころに
大泣きしてミルクを要求しよう、なんていう
赤ちゃんはいない。
これは、大人のなせる業です。
そう考えれば
本当は
他人の目ではなく
自分の目を気にしていることに
気づきます。
自分にダメ出しをされたくないのです。
本当は
自分に好かれたくて
認められたい、という大人心です。
ということは
自分以外の誰かに
認められたり
嫌われなりしないように
神経を張りつめ
無理して自分を作ったり
合わせたりしなくても
いいということ。
だから
もっと肩の力を抜いていいし
そもそも安全だったということです。
どれが正しくて
正解なんだろう、という視点で
いつも、いつも
物事を見たり、考えたり、探したり
判断基準にしたりしているから。
外ばかり見ていると
自分の好きなことや
やりたいことが分からなくなる。
逆に内ばかり見ていても
自分は正しくて
相手が間違っているに陥りやすく
好きなことややりたいことが
結果、遠のいてしまう。
なんてことが起こりやすい。
「ばかり」ではなく
「いがい」にも
視野を広げてみると
均衡がとれて
自分は・・・と考え
気がつくタイミングが来る、はず。
ちっぽけなことで
満足していたら
大きなことは成し遂げられない。
という話を何度も聞いたことがある。
でも、ちっぽけなことにも
満足できないのに
大きなことで満足できるのだろうか。
ほんとは
満足することに
ちっさいも
でっかいもないのだろうけれど。
でも
どうしても
でっかいものは、すごい
ちっさいものは、そうでもない、と
思ってしまう。
それは
ちっさいものは簡単で
大きいものは難しい、っていう
思いがあるから。
確かに違いはある。
時間がかかるとか
いろんな人の手がかかるとか。
でも、大きいもののすべてが
時間がかかるというわけでもない。
画用紙に絵を描くよりも
米粒に書く方が時間がかかる。
大きかろうが
小さかろうが
満足は満足。
心が満たされ満足しているのなら
それでいい。
願いが強ければ強いほど
言い換えると
まだそうではない
足りていない、と
思っていればいるほど
大きなものを求めがちになる。
まるで、ばくちのようだ。
イチバチがダメというわけではないが
疑いがや不安が出てきやすくなるので
モノゴトが進みにくくなる。
だから
そんなこと、と思うような
小さな喜びやうれしいなどを
スルーしないことが大切だ。
それは日々の暮らしの中にある。
あえて、想像力を働かせて
創るってのも手だ。
大みそかは明日やってこない。
みんな知っていることだけれど
でも、ばくちのようなやりかたは
これと似ている。
239日寝たら
大晦日がやってくる。
一日一日の積み重ね。
ちょっとした
うれしいことや
楽しいことを
無理に見つけることも
そう思い込もうとする必要もないが
ふと心が動く瞬間に
気づけるようになりたいものだ。
期待しないこと。
期待以上だったときの
喜びや感動って
はじけるように
眩しくて大きい。
だから期待しないこと。
期待するって
それ以上の
デキゴトやモノゴトを
遮断しかねない。
なぜなら
こうでなければならない、に
陥りやすいからだ。
期待しないって
可能性が無限にあることを
知っている状態でもあり
それを信じていることでもある。
そうであれば
期待しないとは
早々に見切りをつけて
人生を諦めてるってことじゃなくて
期待以上の
デキゴトやモノゴトを
受け入れると
許可を出していることでもある。
ねばならない、という
過剰な力みや
思い通りにならない、という
恨み節から解放され
こうだったらいいなっていう思いが
霧が晴れたかのように見えてくる。
期待しないって
可能性の世界
自分の想像を超える世界を
知る機会が広がるだけじゃなく
自分を楽にすることでもあった。
自分が外側の現象に
反応していると思っていたけれど
外側が自分の心うちに反応して現象が
起こっているのかもしれない。
そうであるならば
自分を観察し
塩梅のよい佇まいを選んでいけば
自分を取り繕ったり
無理に合わせたり
評価にびくびくしたりすることに
費やす時間がぐっと減っていく。
至極、生きやすくなる。
それは、風通しがよくなるから。
鳥の声の種類が増えてきて
虫も飛んでいるのを見たし
土筆も出てきたし
空気もなんだかあったかくなってきた。
ウキウキしている感じがする。
もう春だ。
自分を取り巻く環境が
ウキウキしていると思っていたが
もしかしたら自分もなにげに
ウキウキしているのかもしれない。
やっぱり春だ。
全力は
歯を食いしばってがんばる
一切手を抜かない
苦しくてもあきらめなければ
出てくるものではなく
自分のもともと持っている力を
そのまま出すこと。
なにげに普段やっている呼吸のように。
自然な動きは
出せば入ってくる
入ってきたら出す、を
繰り返す。
循環させなきゃなどと
肩の力が入りすぎることもない。
全力とは
力強く脱力した状態。
両極が相まって調和している。
もしかしたら、モノゴトとは
そういう仕組みなのかもしれない。
朝のクモは逃がし
夜のクモは仕留める。
それは
言い伝えというか
風習というか
朝のクモは縁起がよくて
夜のクモは縁起が悪い、らしいから。
たまたま出没した時間によって
クモの処遇が決まる。
クモが大嫌いな人にとっては
朝だったとしても嫌だろう。
そもそも、この話を知らない場合は
いつであってもクモはクモ。
この言い伝えが
どうのこうのという話ではなく
ものの見方
解釈の仕方
シチュエーションなどにより
捉え方
感じ方は変わるというのが
よく見えて、よくわかる。
しかも
自分の捉え方や
印象
思ったことなどが
一生変わらないということはない。
この先どうなるかわからない。
わからないことに
めいっぱい時間とエネルギーを使うより
今の自分を大事にした方が
現実味があるし
おもしろいんじゃないかと思うのです。
