解くのは
常識と自分の本心。
解くのは
今までのやり方と
自分の本心。
解くのは
信じてきたこと
インプットしてきたことと
自分の本心。
解くのは
経験、体験してきたデータと
自分の本心。
解くのは
恐怖や不安と
自分の本心。
まだあるだろうけれど。
2つ以上の可能性で
葛藤している状態。
つまり、もつれているのです。
解決するには
解いたり
修正したりして
身体と心と魂(可能性の場)を
一致(調和)させて
決めて動くこと。
そうすると
いい塩梅でめぐりだす、はず。
解くのは
常識と自分の本心。
解くのは
今までのやり方と
自分の本心。
解くのは
信じてきたこと
インプットしてきたことと
自分の本心。
解くのは
経験、体験してきたデータと
自分の本心。
解くのは
恐怖や不安と
自分の本心。
まだあるだろうけれど。
2つ以上の可能性で
葛藤している状態。
つまり、もつれているのです。
解決するには
解いたり
修正したりして
身体と心と魂(可能性の場)を
一致(調和)させて
決めて動くこと。
そうすると
いい塩梅でめぐりだす、はず。
えっ、そんなこと、とは
自分を支えていること。
例えば
バランスの取れた食事
適度な運動
十分な睡眠
どんな気分で過ごすのか、などです。
これらを意識して行うことが
自分を整えること。
完璧にやらなければとか
これがいいというからすべき、ではなく
手段や手法に囚われ過ぎることもなく
いい塩梅で無理なくやることです。
えっ、そんなことは土台です。
よりよく変化したい
運気を上げたい
願いを叶えたい、などなど
そんなとき
インパクトの大きいもの
キラキラしたものに
気を取られ
そこに進みたくなるけれど
その前に
土台はどうなっているのかなと
意識することは大切です。
キラキラが悪いわけでも
効果がないわけでもない。
地味でミクロな
えっ、そんなことを
おざなりにしていて
なにかを積み重ねられるのだろうか、と
ふと思ったのでした。
幸せとか
楽しいとか
至極、個人的なこと。
例えば
あまり物を持たずに
工夫しながら暮らすことは
すばらしい。
いろんな物を買うのは
エコじゃないし
今の流れに合っていないし
なんかちょっと。
このような見方があります。
ここで気をつけないと
いけないのは
質素な人はすばらしくて
お金を使う、多く持つ人は
そうではない、という
決めつけや
振り分けをすることです。
質素な暮らしをしていても
恨みつらみなど
文句ばっかり
言っている人もいれば
豊かさを振りまいて
にこにこしている人もいる。
持たない暮らしを
楽しんでいる人もいれば
たくさん持っていても
恐怖や不安で
いっぱいな人もいる。
環境は、大きな影響を
与えるかもしれないけれど
どう生きていくのか
どう生きていきたいのか
なにを選び行動するのかは
自分次第なのです。
だから
『こころもち』は
大事なのです。
根っこだから。
質素だろうが
豪華だろうが
自分の『こころもち』で
人生は創られていくし
埋められていく。
そして
こころもちは
やがて暮らし方に
表れてくるのかもしれない。
それも人それぞれで
至極、個人的なこと。
『今のままの自分でいい。』
本来は
自分のことを自分のままでいい
今のありのままでいい、などと
思う必要も
認める必要もないのです。
なぜなら
『今は』
『今のままの自分でいい』からです。
いちいち、自分は人間と思って
暮らしていないのと一緒です。
では、なぜ
『今のままの自分でいい』という生き方が
難しいと感じるのか。
そういう生き方をしてこなかったから。
はじめは、あれができていない
これができていないなどと
大人に言われ続けて育ち
やがて自分も大人になると
自分に対して
そのように接してきたからです。
今のままでいいと言われる経験も
少なかったと思います。
いろんなことが、できたり
増えたりすると完璧になっていく。
そして、他の人から認められたら
そう思っていもいいし
それが幸せだ
今のままでは不十分だと
解釈を勘違いしてきたのです。
ありのままを認めたら
成長が止まってしまうのでは?と
不安になるかもしれません。
それは本当だろうか。
ありのままの自分が
今を生きていくと
成長や変化も続いていくと
考えています。
例えば、自転車に乗れないとする。
『今のありのままの自分でいい』とは
乗れないことを知っているという状態で
乗れるからマルで
乗れないからバツ、などで
判定していないということ。
その上で、乗れないを知っているので
乗れるようになるには
どうしていこうかと考えられる。
そして行動していくので
成長が止まることはありません。
事実が見えているので
かけ離れた練習方法をしようとしたり
実行したりしないと思うのです。
かえって、早く自転車に
乗れるようになるかもしれません。
そして、選択肢が広がるので
乗れなくてもいいなんてことに
なるかもしれません。
『今のままの自分でいい』は
自分に選択権があること知り
自分に敬意をもっているとも言えます。
はなっから
何者でもないのに
何者かになろうとするから
よくわからなくなる。
何者かになったとしても
それを維持するのに
自分をすり減らし
バランスが崩れてしまうなら
それは我慢の上に成立していることで
長続きはせず
結果、何者かになったとは言えない。
言えないから
失敗ということではなく
そもそも何者でもないということを
体感した、わかったということだ。
では、何者でもないということは
どっちつかずの存在ということではなくて
ここにいると言う証であり安心も伴う。
裏を返せば
何者でもないということは
なんにでもなれる
変化できるということだ。
よって
何者でもないということは
可能性の塊とも言える。
可能性の塊を
どうしていくかは
自己裁量で
自由ということでもある。
今のところ
幸せにカタチはない、と
考えている。
年収が高くて
幸せな人
幸せじゃない人もいるし
結婚していて
幸せな人
幸せじゃない人もいるから。
幸せは、自分の心が
そう感じること。
最近は
幸せだと感じている
自分がいることが
幸せなのかもしれない、と
思いはじめている。
あ~幸せ
ほっこりする、などなど
感じているとき
味わっているとき
浸っているとき
しみじみしている自分に
気づいたときが
幸せなのかもしれない。
アンパンマンが
優しくて
勇気があって
強いのは
つねに新しい顔だから。
お腹がすいている人に
あんぱんを食べさせてあげたり
戦って顔が汚れたりすると
たちまち力が出なくなる。
そんなとき
バタコさんが
すばらしいコントロールで
投げてくれた新しい顔になると
勇気100倍に戻る。
勇気100倍になるんじゃなくて
戻るってところがポイント。
優しくて
強くて
勇気がある
アンパンマンも
パワーチャージが必要なのだ。
パワーチャージをするから
優しく
勇気がある
アンパンマンなのだ。
だから
自分の持ち味(あんぱん)を
発揮できるのです。
私たちも一緒。
人の役に立つことは
いいことだと教えられ
人のためになることをすれば
幸せになれると聞き
エネルギーチャージが必要なのに
人のことばかりに
ときと労力をかけていれば
崩れるのは当たり前だ。
まずはアンパンマンを見習って
力が出ないときは
エネルギーをチャージしよう。
なにかできごと
主に外からの
刺激があると
意味づけや
紐づけをして
蓄積してしまいがちです。
喜怒哀楽は当然あるわけで
その感情を体験するのは
ごく自然なこと。
そこは心の赴くまま
味わうのも醍醐味のひとつ。
しかし
それを昔の記憶や
世の中の基準や常識
教えられてきたことなどと
照らし合わせて
いい悪いの査定をしたり
それらやなにかと結び付けて
「こうにちがいない」などと
決めつけてしまうことは
控えた方がいい。
どうしてかと言うと
新たな意味づけや
解釈を作り出し
生きにくさが
プラスされてしまうから。
そういうできごとだったんだ、と
ドライなくらいが
もしかしたら
ちょうどいいのかもしれない。
望みを叶えたいなら
思い通りの人生にしたいなら
エゴをなくすこと。
そのような話を
何度も聞いたことがあります。
でも、もしかしたら
それもエゴではないだろうか。
エゴをなくさないと
と言うエゴ。
エゴって
なくさないと
幸せになれないのだろうか。
そもそもエゴって
悪一色なのだろうか。
ある時点では
必要だと思って
取り入れたけれど
今は自分に合っていない、とか。
そのときには
とてもよかったけれど
今は、もうそうではない、とか。
成長する過程で
そういうもんだからと
教えられた、とか。
確かに、それらが
人生に影響を与えることはある。
そのときには
大切だったり
そう思い込まされたり
有用だったりしたかもしれないが
今は、そうではないなら
取り入れなくてよいということです。
悪かどうかより
もう採用しなければいいってこと。
ようは
今の自分が生きていく上で
必要かどうか、という視点が
とても大事になってくる。
エゴが人生の善し悪しを
左右しているように見えるけれど
エゴをどうするかは
自分に権限があるってこと。
だからエゴがあってもいいし
手放したはずのエゴが
また出できてもいい。
暇って
やることがなくて
無意味で
無駄な
時間ではなく。
いろんなことを
生み出せる時間
きっかけになる瞬間
なのかもしれない。
時間や空間
余白ができるから
疑問が生まれたり
追究したり
いろいろできるわけだ。
だから
暇って有益。
コマを回すこと。
コマが回り続けること。
「続ける」と言うと
がんばり続ける
やめられない、など
あまりよくないイメージを
思い浮かべてしまいますが
回り始めれば
そのエネルギーに任せておけば
回っていくんだから
ある意味、楽だ。
自然の流れのまま
そのまま止まるまで
続いていくから。
さらに回そうとして
力を加えたり
触ったりする方が
バランスを崩してしまう。
そのうち
動きが遅くなり
やがて止まるが
そこも一連の流れで
見ごたえがある。
特段の理由は見つからないが
とても好んでいる言葉である。
妙に懐かしさを感じながら
同時に畏敬の念も
持ち合わせている。
身近でありながら
近寄りがたくもある。
言葉を超えて
雰囲気で
捉えているのかもしれない。
同じ生あるものとして。
小難しいことを述べたが
ようは、根底にあるってこと。
なんとも不思議な間柄だ。