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これを

ひも解いて

分解していくと

すべてある

あるけどない、という

可能性の場に出くわすだろう。






これが本質ではないのかと

今のところ思っている。






そんななんでもありの

無敵状態であるにもかかわらず

身体を有し

身体とともに

この世界で

期限や制限の中

わざわざ生きていくのが人生。






好奇心の塊とも表現できるし

怖いもの知らずの冒険者

はたまた無鉄砲と

捉えられるかもしれない。






時間や制限はない、と

スピリチュアル業界で聞かれるが

それは本当の自分の場のこと。






今は

心と身体と魂がともにある場にて

あーでもない

こーでもないと

制限や期限があるから

体験したり経験したりできるている。

それは身体があるから。

心が動くから

自分を深く知っていく。

そして可能性の場へと続いていく。






そのうちに

心と身体と魂がなじんでくると

可能性の場

ようはなんでもありを

この世界でも体現できるのである。






この不可解で

でも単純な仕組みの世界で

心と身体と魂を

なじませ=調和させていくか。

そこに

好みのあり方、生き方が

できるかどうかの

手がかりがありそうだ。






いかに

おもしろがれるか。

風のような軽やかさで。

そこにも、わざわざしたくなる

理由が隠されているのかもしれない。

いや、わざわざ、そのものが

すでにおもしろいのだろう。

やはり好奇心旺盛なんだな。

きっと。

それはパターン。






日常生活の中で

なにげに行っていること。






パターンに対して

自分がする反応も

パターン化していることが多く

だから似たような現実を生みやすい。






たとえば

出かける日に雨が降っていると

なんて自分は運が悪いんだ

出かけるときに限って降るなどと

決めつけては嫌な気持ちになる。






パターンは

馴染んでいるので

気づきにくく

繰り返すので

同じような

結果を手にすることとなる。






もちろん

このパターンのおかげで

スムーズに物事を

進められるという利点も

たっくさんある。






しかし

このパターンが

好みではないことも

繰り返していくという点もある。






そこで大切になるのが

日々の暮らしの中で

ふと訪れた違和感や不快感を

みんなもそうだからなどと

無かったことにしないこと。






違うなと思えば変えていく。

その動きが

パターンが生み出す

パターンを変化させていく。






パターンは見張らずとも

心の機微に

少し意識を向けるだけでいい。






自分のことを気にかけることは

お金をかけずとも

改めて機会や場所を設けなくとも

できること。






そうなると

ちゃんとやらなきゃ

がんばらなくてはと

張り切る気持ちも出てくるが

これもパターンの可能性があるので

軽い気持ちで始めるのがコツ。






またやってしまった、と

パターンに気づいたら

こっちのもの。

そうなってくると

宝さがしみたくなってくる。

そう言いながら

捨てずに

取っておくを

繰り返していたら

物であふれかえる。






しかも

そうそう使わないのに

いつかと言いながら

また、取っておくので

同じものが増えていく。






これでは

物を大切にしているとは

言えないだろう。






物という

目で見てわかる

たとえだったが

これを

心の中のことで

置き換えてみると。






窮屈だろうな

重そうだな

ワンパターンだな

なにかをやりたいと思っても

時間がかかりそう、などなど

そんな言葉が出てくる。






新たに入る余地もないし

びっちびちなので

動きだせそうな気もしない。






そのような状況で

目標を立てても

自分に叱咤激励しても

なだめすかしても

引き寄せをしようとしても

なかなか

思うようには進まないのだ。






才能がないのでも

運がないのでもなく

ただ単に

ため込み過ぎ。






こんなときは、棚卸し。

今、必要かな

これ、なん個もいるかな、など。

この後の日々の暮らしが

自然と整い

変化していくのではないだろうか。






いつか使うかも、のほかに

本当に?という対極の視点も

大事になってくる。

自分にとってのちょうどよいは

あっちもあって

こっちもあって

あーでもない

こーでもない、と

調整していったから気づくこと。






それって

すべてあるからなせる技。






あまたある料理の中から

好みの一品を選ぶことと似ている。






一発で見つけることもあれば

食べながら見つけることもある。






世の中では

早く見つけることを

よしとする傾向が強いが

いろんな違うを知ることで

幅が広がるともいえるので

早さでよし悪しは

決まらない、と思っている。






そして

好みのものが

ずっと続くとも限らない。

苦手なものも同様だ。

移り変わっていくこともある。






そんなことを受け入れつつ

その都度

自分は、どうなんだろうと

目を向けていくことで

ちょうどよいが増えていく。






だから

どうだったかよりも

どうありたいかに軸を置いた方が

日々の暮らしが

おもしろくなる予感がする。

エゴからなのか

本心からなのか

わからなくても

ひとまず

いいのではないでしょうか。






スピリチュアルなところで

あまりにも

エゴは~というから

気になって、気になって

しかたがないかもしれないけれど。






こだわり続けると

判別しているだけで

時は過ぎ去っていく。

まるで関所の門番のようだ。






エゴだろうが

本心だろうが

出てきたことには違いないので

いたっていいんじゃないだろうか。






心の内のことだから

いてもいいし

思ってもいい。

それくらい

大きく構えていると

心身が楽になる気がする。






コツは

あんまり

難しくとらえない

考えない

根を詰めないこと。






濁った水も

流し続けていれば

そのうち澄んでくるように

心模様も流れも

よくなっていくと思えるのです。

よっぽど暇で

刺激が欲しくなったんだね。






あるけどない。

ないけどある。

すべてだから。






身体を有し

わざわざ制限のある状態を

作ってみた。






そこでは

なにが起こるのか

どんなことができるのか

できなくなることはあるのか

いろんなことを

やってみたくなったんだろうね。






どういうことなんだろう。

なぜなんだろう。

どんな感じ。

知りたい。

やってみたい。






神さまって

好奇心旺盛なんだ。

もしかしたら

欲ばりさんかもね。






人間と同じだよ。

ああなりたい。

こうなりたい。と

決めること。

あとは、そのように

日々の暮らしを過ごすこと。






とは言え

今は、まだそうなっていない

ギャップを感じる

いろいろ思うところはあれど

日々の暮らしの中で

自分でできることをするだけ。






決めれば

なにをすればよいか

なにがしたいか

わずかながらでも

見えてくる。






もしかしたら

なにをの

なにを探すより

決めることを先にした方が

いいのかもしれない。

ナビは優秀で

いつも通っている道順を

覚えていて案内してくれる。






さっと

いつものやつを

出してくれるのだ。

とっても気が利く。






もしも

いつものやつが

なんか違うなとか

こういう道がいいなとか

出てきたとしても

案内で出てくるのは

いつものやつ。






これって

ナビのせいなのだろうか。






もし違う道

新たな道を行きたいのなら

ナビにセットしなおすか

案内されても違う道を

自分で選択すればよいのだ。






違う道を走れば

ナビは再検索し

すぐさま自分が進んでいる道の

続きを示してくれる。






だから

お望みの道でないのは

ナビのせいではなく

どの道を行くのか

行きたいのか

自分が決めればいいのです。

なにか行き詰まっているとき

気がかりや悩みがあるとき

消化の方が自分に

優しいかもしれない。






解消よりも

自然な感じがするし

消化したら

心身の栄養になるからだ。

これは自分の世界での話で

いろんなことを

思っちゃってもOK。






あんなことを思っては

こう考えては

いけない、ではない。






これは

自分の心の内のことで

だれかやなにかに

だだもれさせるわけじゃないから。






そうやって

耳を傾けるようになると

いつも心の中で

どんなおしゃべりが

繰り広げられているかが

見えてくる。






自分が自分を

どう見ているのか

どう思っているのか

どう扱っているのか。






思っている以上に

辛辣な言葉を出し

見張りをしていることに

気がつくのではないでしょうか。






これは

外の世界との関係で

自分を窮地に立たせない

困ったことにならないよう

自分を守るためだったはずが

いつしか自分が一番

責めていた、なんてことが。






絶えず

自分を責める声が

繰り返されている。

想像しただけでも恐ろしい。






自分が自分に

どのような声かけをしているのか。

自分への扱いが

見える世界にも現れる。

幸せに

なるというより

感じるもの

味わうもの、の方が

しっくりくる。






すごく個人的な感じがするし

自分がわかっていればいい

そう思うから。






ささやかなことでも

人に気がつかれなくても

あまり理解されなくてもいい。






追い求めるのではなく

ここはどうなっているんだろう。

そんな見方は

すでにあった

そうであったと

幸せを

おのずと浮き上がらせてくれる。






だから

なるより

味わう

感じる。






単純に

その方が

おもしろそうだし

じわじわ楽しめそうだ。