ブログ

やりたいことが

わからなくなるのは

変だと思われないもの

受け入れられるであろうもので

検閲を通ったものの中から

選ぶ癖がついているから。






いいな

おもしろそう

やってみたい

もっと知りたい

そんな『わぁ』と

心が反応したのに

ちょっと待て。大丈夫か?

いいねと言ってもらえるか?

言い訳を考えていないだろうか。






一瞬で華やぎは消え去り

じわじわと

やりたいことがわからなくなる。






人の目

社会の目

常識が気になってもいい

癖だから

気になってもいいから

ぱっと華やいだ

その感情を無視しないでほしい。






すぐに行動できなくても

叶え方がわからなくても

自分が心惹かれた

その思いを受け取ろう。






そうしているうちに

調べてみようかな

やってみようかな、なんて

やりたいことが見えてくるし

気がつけるようになる。

もしかしたら

幸せや喜びって

願いが叶ったときではなく






こうしたい

こうなりたいな

これいい、などと

あれこれ願いが生まれた

その瞬間なのかもしれない。






叶ったら始まる、ではなく

ニヤッとした

その瞬間に

幸せや喜びは

もうすでにあるのかもしれない。






目に見えて

手に取れる叶うは

そんなニヤッとの続き。






それなら

いっそ今から

ニヤッとしてしまうというのは

どうだろうか。

なんなら

ニヤニヤでもいい。

これ、いい。

おもしろそう。

行きたいな。

やってみたいな。






そんな

心や顔が

ぱっと華やぐような

願いが出てきたとき

そのままの思いや考えを

表現しているだろうか。






だれに見せるわけでも

聞かせるわけでもないのに

批判されないように

受け入れてもらえるように

表現していないだろうか。

いいわけなんかも考えたりして。






そうこうしているうちに

すっと心の表面だけを

通り過ぎていくような

どこか他人行儀な願い

心からではなく

人からお墨付きがもらえるような

願いへと変化していくのだ。






そうすると

願いとの距離ができ

愛着が薄れていくので

行き先は

叶いにくいゾーン。






だから

難しく考えたり

見た目のよい感じに

仕上げようしたりせず

自由に

好きに

思いのまま

自分はこれを願っているんだと

観念して認めること。

正解か、不正解か、より

しっくりくるか、どうかで

選んだり

決めたりした方が

生きているって感じがする。






正解という答えは

どこかにあると思っていて

しっくりくるは

自分の中にあると知っている。

外か内か、という違い。






だから

ライブ感、肌感覚が違うのだ。

波動下がってないかな。

目覚めているかな。






日々、暮らしていて

気になっちゃうのなら

一旦、忘れてしまいましょう。






もっと気楽に生きたい

叶えたいことがある、から

始めたことなのでは。






それなのに

がんばらなきゃ

役に立つ人にならないと、のように

自分を縛りつけてしまうくらいなら

気にせずに生きてみる。






言葉がはやっているからこそ

忘れてみるのも一つの手です。

どのような生き方をしたいのか。

どうなりたいのか、ありたいのか。






望みが明らかになったら

叶えるために

引き寄せようと考える。






もし、それが

なかなかうまくいかないのなら

そのやり方を変えた方がいい。






この方法が間違っている、とか

自分がダメだから、とかではなく

しっくりこなかった、というだけ。






合う人もいれば

そうでない人もいる。

今回は、そうだからといって

後生、合うわけでも

合わないわけでもない。






なんか違うなって思ったら

そうである生き方を

日々の暮らしの中で行っていくこと。






ここまでだと

引き寄せとよく似ているが

日々の暮らしを通して

そうである生き方やあり方を

意図的に選んでいくということ。






自分で選び作っていくということ。






引き寄せて持ってくるというより

あつらえるという感じでしょうか。






この方が特別感が出てきます。






だれかと比べての特別感ではなく

より自分に合うという意味での

特別感です。

自分が自分のために、です。

自分を嫌わないこと。






できなかったり

間違ったり

わからなかったりすると

ほら、やっぱりだめじゃん、と

責め、自分を嫌いになっていく。






たとえ

できること

できるようになったことでも

まだまだ

これくらいで

満足していては、だめだ、と

突っぱねる。






これくらい、できて当たり前。

それに比べて・・・

自分は・・・と。






自分を嫌うと

神さまに好かれない、ということは

自分は神さまであるとも解釈できる。






ならば

自分の中に

ほっとできて

ゆるめられ

でも、自分を勇気づけたり

励ましたり

後押ししたり

安心できる場所を

作っていけるのは

自分しかいないということになる。






自分の神さまは、自分。

ということ。






さっさと

自分のお好みで

生きた方が

俄然、人生が

おもしろくなりそうだ。

いつか、いつか出くわしたい。

そう思ってから

どれくらいたったのだろう。






そんなことさえも

すっかり忘れていた

大雨が降った日のこと。






裏庭がどうなっているのか

窓から見てみると

『えっ!!』






あっちも

『えっ!!』






その瞬間、お互い微動だにせず。

ときが止まったのかのようだった。






クルミをくわえたエゾリスが

二本足で立っていたのだ。






さかのぼること数年前。

草むしりをしていたら

ほっそい木が生えていた。

引っこ抜いてみると

クルミがついていた。

そうリスの忘れ物。






エゾリスがいることを

確信した私は、にんまりし

いつかは見たいと思ったものの

その日は、ちっとも来なかった。






でも、突然来たのだ。

急いでスマホを構えるも

クルミを埋めたら

すぐ林に入っていった。






写真に撮れなくて残念だったが

見られてよかった。

なによりも家のそばにいたことが

うれしかった。






そうしたら

素早い動きで再登場し

クルミを埋めている。

しかも、林に帰っては来るを

何度も繰り返す。






おかげで、しっかり写真に収

めることができました。






もう、このような機会は

ないだろうなぁと思っていたら

2週間ほどの間に

違う場所で2回も見た。






ちょっと拍子抜け。






で、あることを思い出したのだ。

意識を向けたもの

気にしているものが

目についたり

気づいたりするということを。

だから、立て続けに

見られたのかもしれない。






具現化する確率が

ぐんと上がったのだ。






エゾリスの登場に心が動き

いることを確信し

意識を向けたからだ。

3回目ともなると

非日常だったものが

日常へとなっているので

叶いやすくなるのはなおさらだ。






そう考えると

すべてあるの可能性から

自分が選んできているのだ。






手にする

出現させる

出合うなど

具現化させるには

自分が

なにを望み

なにに意識を向けるのか、が

いかに重要かがわかる。






そこが、しっくり腑に落ちれば

いつかが

いつもになり

何度もになっていくのかな。

きっと。

これを

ひも解いて

分解していくと

すべてある

あるけどない、という

可能性の場に出くわすだろう。






これが本質ではないのかと

今のところ思っている。






そんななんでもありの

無敵状態であるにもかかわらず

身体を有し

身体とともに

この世界で

期限や制限の中

わざわざ生きていくのが人生。






好奇心の塊とも表現できるし

怖いもの知らずの冒険者

はたまた無鉄砲と

捉えられるかもしれない。






時間や制限はない、と

スピリチュアル業界で聞かれるが

それは本当の自分の場のこと。






今は

心と身体と魂がともにある場にて

あーでもない

こーでもないと

制限や期限があるから

体験したり経験したりできるている。

それは身体があるから。

心が動くから

自分を深く知っていく。

そして可能性の場へと続いていく。






そのうちに

心と身体と魂がなじんでくると

可能性の場

ようはなんでもありを

この世界でも体現できるのである。






この不可解で

でも単純な仕組みの世界で

心と身体と魂を

なじませ=調和させていくか。

そこに

好みのあり方、生き方が

できるかどうかの

手がかりがありそうだ。






いかに

おもしろがれるか。

風のような軽やかさで。

そこにも、わざわざしたくなる

理由が隠されているのかもしれない。

いや、わざわざ、そのものが

すでにおもしろいのだろう。

やはり好奇心旺盛なんだな。

きっと。

それはパターン。






日常生活の中で

なにげに行っていること。






パターンに対して

自分がする反応も

パターン化していることが多く

だから似たような現実を生みやすい。






たとえば

出かける日に雨が降っていると

なんて自分は運が悪いんだ

出かけるときに限って降るなどと

決めつけては嫌な気持ちになる。






パターンは

馴染んでいるので

気づきにくく

繰り返すので

同じような

結果を手にすることとなる。






もちろん

このパターンのおかげで

スムーズに物事を

進められるという利点も

たっくさんある。






しかし

このパターンが

好みではないことも

繰り返していくという点もある。






そこで大切になるのが

日々の暮らしの中で

ふと訪れた違和感や不快感を

みんなもそうだからなどと

無かったことにしないこと。






違うなと思えば変えていく。

その動きが

パターンが生み出す

パターンを変化させていく。






パターンは見張らずとも

心の機微に

少し意識を向けるだけでいい。






自分のことを気にかけることは

お金をかけずとも

改めて機会や場所を設けなくとも

できること。






そうなると

ちゃんとやらなきゃ

がんばらなくてはと

張り切る気持ちも出てくるが

これもパターンの可能性があるので

軽い気持ちで始めるのがコツ。






またやってしまった、と

パターンに気づいたら

こっちのもの。

そうなってくると

宝さがしみたくなってくる。

そう言いながら

捨てずに

取っておくを

繰り返していたら

物であふれかえる。






しかも

そうそう使わないのに

いつかと言いながら

また、取っておくので

同じものが増えていく。






これでは

物を大切にしているとは

言えないだろう。






物という

目で見てわかる

たとえだったが

これを

心の中のことで

置き換えてみると。






窮屈だろうな

重そうだな

ワンパターンだな

なにかをやりたいと思っても

時間がかかりそう、などなど

そんな言葉が出てくる。






新たに入る余地もないし

びっちびちなので

動きだせそうな気もしない。






そのような状況で

目標を立てても

自分に叱咤激励しても

なだめすかしても

引き寄せをしようとしても

なかなか

思うようには進まないのだ。






才能がないのでも

運がないのでもなく

ただ単に

ため込み過ぎ。






こんなときは、棚卸し。

今、必要かな

これ、なん個もいるかな、など。

この後の日々の暮らしが

自然と整い

変化していくのではないだろうか。






いつか使うかも、のほかに

本当に?という対極の視点も

大事になってくる。

自分にとってのちょうどよいは

あっちもあって

こっちもあって

あーでもない

こーでもない、と

調整していったから気づくこと。






それって

すべてあるからなせる技。






あまたある料理の中から

好みの一品を選ぶことと似ている。






一発で見つけることもあれば

食べながら見つけることもある。






世の中では

早く見つけることを

よしとする傾向が強いが

いろんな違うを知ることで

幅が広がるともいえるので

早さでよし悪しは

決まらない、と思っている。






そして

好みのものが

ずっと続くとも限らない。

苦手なものも同様だ。

移り変わっていくこともある。






そんなことを受け入れつつ

その都度

自分は、どうなんだろうと

目を向けていくことで

ちょうどよいが増えていく。






だから

どうだったかよりも

どうありたいかに軸を置いた方が

日々の暮らしが

おもしろくなる予感がする。