ちっぽけなことで
満足していたら
大きなことは成し遂げられない。
という話を何度も聞いたことがある。
でも、ちっぽけなことにも
満足できないのに
大きなことで満足できるのだろうか。
ほんとは
満足することに
ちっさいも
でっかいもないのだろうけれど。
でも
どうしても
でっかいものは、すごい
ちっさいものは、そうでもない、と
思ってしまう。
それは
ちっさいものは簡単で
大きいものは難しい、っていう
思いがあるから。
確かに違いはある。
時間がかかるとか
いろんな人の手がかかるとか。
でも、大きいもののすべてが
時間がかかるというわけでもない。
画用紙に絵を描くよりも
米粒に書く方が時間がかかる。
大きかろうが
小さかろうが
満足は満足。
心が満たされ満足しているのなら
それでいい。
願いが強ければ強いほど
言い換えると
まだそうではない
足りていない、と
思っていればいるほど
大きなものを求めがちになる。
まるで、ばくちのようだ。
イチバチがダメというわけではないが
疑いがや不安が出てきやすくなるので
モノゴトが進みにくくなる。
だから
そんなこと、と思うような
小さな喜びやうれしいなどを
スルーしないことが大切だ。
それは日々の暮らしの中にある。
あえて、想像力を働かせて
創るってのも手だ。
大みそかは明日やってこない。
みんな知っていることだけれど
でも、ばくちのようなやりかたは
これと似ている。
239日寝たら
大晦日がやってくる。
一日一日の積み重ね。
ちょっとした
うれしいことや
楽しいことを
無理に見つけることも
そう思い込もうとする必要もないが
ふと心が動く瞬間に
気づけるようになりたいものだ。
期待しないこと。
期待以上だったときの
喜びや感動って
はじけるように
眩しくて大きい。
だから期待しないこと。
期待するって
それ以上の
デキゴトやモノゴトを
遮断しかねない。
なぜなら
こうでなければならない、に
陥りやすいからだ。
期待しないって
可能性が無限にあることを
知っている状態でもあり
それを信じていることでもある。
そうであれば
期待しないとは
早々に見切りをつけて
人生を諦めてるってことじゃなくて
期待以上の
デキゴトやモノゴトを
受け入れると
許可を出していることでもある。
ねばならない、という
過剰な力みや
思い通りにならない、という
恨み節から解放され
こうだったらいいなっていう思いが
霧が晴れたかのように見えてくる。
期待しないって
可能性の世界
自分の想像を超える世界を
知る機会が広がるだけじゃなく
自分を楽にすることでもあった。
自分が外側の現象に
反応していると思っていたけれど
外側が自分の心うちに反応して現象が
起こっているのかもしれない。
そうであるならば
自分を観察し
塩梅のよい佇まいを選んでいけば
自分を取り繕ったり
無理に合わせたり
評価にびくびくしたりすることに
費やす時間がぐっと減っていく。
至極、生きやすくなる。
それは、風通しがよくなるから。
鳥の声の種類が増えてきて
虫も飛んでいるのを見たし
土筆も出てきたし
空気もなんだかあったかくなってきた。
ウキウキしている感じがする。
もう春だ。
自分を取り巻く環境が
ウキウキしていると思っていたが
もしかしたら自分もなにげに
ウキウキしているのかもしれない。
やっぱり春だ。
全力は
歯を食いしばってがんばる
一切手を抜かない
苦しくてもあきらめなければ
出てくるものではなく
自分のもともと持っている力を
そのまま出すこと。
なにげに普段やっている呼吸のように。
自然な動きは
出せば入ってくる
入ってきたら出す、を
繰り返す。
循環させなきゃなどと
肩の力が入りすぎることもない。
全力とは
力強く脱力した状態。
両極が相まって調和している。
もしかしたら、モノゴトとは
そういう仕組みなのかもしれない。
朝のクモは逃がし
夜のクモは仕留める。
それは
言い伝えというか
風習というか
朝のクモは縁起がよくて
夜のクモは縁起が悪い、らしいから。
たまたま出没した時間によって
クモの処遇が決まる。
クモが大嫌いな人にとっては
朝だったとしても嫌だろう。
そもそも、この話を知らない場合は
いつであってもクモはクモ。
この言い伝えが
どうのこうのという話ではなく
ものの見方
解釈の仕方
シチュエーションなどにより
捉え方
感じ方は変わるというのが
よく見えて、よくわかる。
しかも
自分の捉え方や
印象
思ったことなどが
一生変わらないということはない。
この先どうなるかわからない。
わからないことに
めいっぱい時間とエネルギーを使うより
今の自分を大事にした方が
現実味があるし
おもしろいんじゃないかと思うのです。
自分を変えると
人生がうまくいくというから
変えようとする。
別人のようになればいいんだ、と
思ってしまう。
それだと土台にあるのは
今の自分がダメという捉え方だから
結局、自分ではない
誰かや何かになろうとして
やみくもに月日を
重ねてしまうこととなる。
変わることは
別人のようになることではない。
もう必要ではない
もともと必要ではなかった
ものごとを外していくことで
ときとして
別人のように感じるだけ。
そもそも
それが、もともとの自分。
曇っていたり
汚れていたりして
見えにくかった鏡を
磨いたら
ピカピカになって
自分ってこんな顔だったの
『別人みたい』と驚くのと一緒。
ずっと靄がかかった状態で
自分を含めた世界を見てきたから
それしか知らなかったから
それが本当だと思っていたけれど
実は、こっちの方が本当だったという話。
だから別人になろうとせず
柔らかい布で
曇りを取るように
自分を磨いていけばいい。
なにが見えてくるんだろう。
そりゃ楽しみだ。
世界を変えるために
自分を変える、のではなく
自分を整えた、から
見える世界が変わり
見え方が変わり
自分を取り巻く世界が
変わったように
感じるのかもしれない。
でも
別人のようになったのではなく
自分の世界に嘘がなくなった分
そもそもに戻った、って感じ
なのかもしれない。
そう考えると
世界<自分
いい天気だぁ。
外の景色、きれいだなぁ。
今日のコーヒーなんかおいしい。
と、ほのぼのとした感じや
幸せ、喜びが湧いてきた瞬間
いやいや
これくらいで喜んでいては・・・
たいしたことないし・・・
と瞬時に
取り消し
なかったことにしてしまう。
それは
幸せは大きなものがいい、と
信じているからだ。
その方が周りの人に
気がついてもらえる可能性があるし
苦労や大変な思いをして叶えた方が
価値がある、認められる、などなど
たくさんの思い込みがあるのだ。
だから
小さな幸せはカウントしない、を
選択してしまっているのです。
しかも瞬速で。
だって
そんな小さな
いい天気だなぁ、は
誰でも経験できることで
何回も思ったことがあるし
特別じゃないと思っているから。
そう思わされてきて
いつしかスタンダードになり
大人になった今も
そういうものだと信じ込んでいる。
それが、いいかどうかではなく
もし、なんか日々の暮らしが
パッとしないと感じているのなら
安心や幸せ、喜びとは
こうあるものだという強い思い込みと
ジャッジをしていないだろうかと
振り返ってみるといいかなと思います。
そういう要素があるなと思ったら
そんなことを思っちゃいけないと
自分を責めることに
視点をすり替えるのではなく
それを、きっかけにして
じゃぁ、本当はどうなったらいいのか
どうしたいのかを確認し修正や調整する。
だからと言って
些細なことでも
喜ばなきゃとか
感謝しなきゃとかではない。
それは自分に対して
正直じゃないからだ。
出来事の大小にかかわらず
なんか、いいなぁ。
きれいだなぁ。
しっくりこないなぁ。などの
心が乗った
自分の「ひとりごと」に
気がついていくと
日々の暮らしに
なにかしら
変化が訪れるかもしれません。
そんなわけはないでしょ、と
思うけれど
こういうこともある。
いろいろ理由は
あるだろうけれど
思いつくのは
叶わなかったらショック。
叶ってしまったら
この後、なにを目標にして
生きていけばいいのかわからない。
思いもしないことが出てきたら
対応できない。
叶うはずがない。
思いをはせるだけ無駄。などなど。
傷つきたくないのだ。
夢や願いを大事にすればするほど
怖くなりやすい。
だから本丸には手を出せなくなる。
願いって1つじゃなくても
いいんじゃない、と
思えれば怖さも分散されるかも。
叶えることをゴールにしていると
叶うと暮らしに
張り合いがなくなると
誤解してしまう。
醍醐味は、叶えることではなく
それを味わい、満喫し
楽しむことなのではないだろうか。
そこに気づくと
さらなる展開が見えてきて
その後も暇になることは
ないでしょう。
逆に忙しくなるかも。
知っていることは
安心感をもたらしてくれます。
だから、思いもしない願いが
出てくると焦ってしまうのも
当然です。
しかし、今、認識していなくても
自分からの願いです。
遅かれ早かれ、なじむでしょう。
そんなの無理、無駄が
間髪入れず出てくる場合は
ただの癖です。
でも強烈に信じているので
繰り返し出てきます。
だから、できることを
しかも日々の暮らしの中で
ちょっとずつ
やってみることです。
恐怖が出てもいいんです。
それだけ大事にしている
願いがあるってことだから。
そこに値打ちがあるのです。
土の下や種の中が
どうなっているのか
見えなくても
わからなくても
ときが来れば芽が出る。
やがて
根を張り
葉を出し
空に向かって伸び
花を咲かせたり
実をつけたりする。
目に見えないところで
着々とことが進んでいたのだ。
これは人にも言えることで
今、変化が感じられなくても
望む現実が起こっていなくても
こうなりたい
こうありたいの種は
着々と自分の中で準備している。
だから邪魔をしないことだ。
芽は出てきてるのか
土を掘り返したり
乾燥しないように
水をあげまくったり
しないのと同じこと。
自分のこれがだめだ
あれがだめだ
才能がない
運がない、などと
土を掘り返すように
自分をえぐらないこと。
日当たりや水はけが悪い
日差しが強すぎるなど
環境がよくないのなら
知恵を巡らせて
居心地をよくするのです。
そうこうしているうちに
土の中で、種の中で
なにが起きているのか
わからなくても
芽が出てくるのと同じように
見える世界が変わっていく。
種と同じように
人にも芽を出す力が
そもそも備わっている。
だからこそ
自分が妨げにならないよう
自分の内側に気を配ること。
大人の自分が
自分のために
自分を慈しみ育む。
それが芽を出すコツ。
そこから
なにを学べるのか
どう変えていくのか
どうしていきたいのか、は
自分で決められる。
うれしくない出来事の
渦中にいるときは
なかなか、そうは思えなくても
ちょっと落ち着いてきたときに
顔を上げて周りを見てみると
気づけることがある。
視点をずらしてみると
終わりの見えない堂々巡りが
あれっ、ていう
希望のようなものが
かすかに感じられるかもしれない。
可能性の場のネガティブなところに
焦点を合わせていた自分が
あれっとなることで
ポジティブなところに
視点が行くようになったってこと。
要は、自分がどこに
焦点を合わせるかで
すべてある可能性の場の
なにとなじむか、結びつくかが
決まる。
だから、そのあとに
現実が変わったり
好みのものに変化したりする。
